軍艦が白く乱反射する海面を裂いて左右に飛沫を飛ばす。達筆な字で海軍と大きく書かれた帆を太らせる風は、非常に穏やかなもので船脚も遅い。
船内から甲板に出て来たシビラは、出払っている海兵達の帽子からちょろりとはみ出た髪や、襟足を遠慮がちに揺らす風速に、軍帽を押さえつけておく必要は無さそうだと鍔から指を離した。
「シビラ、もうそろそろ島に着くって」
「上陸準備すんぞ!早く来い!」
笑顔の女が大声で少し離れた場所からシビラを呼んでいた。名をフェドラといい、その隣で軽快に掌を振り此方を招く男はルースという。
二人はシビラの年上の同期であり同じ釜の飯を食らう戦友である。入隊当初から高低差のある肩を並べ、不揃いな呼吸を無意識に合わせることを数年に渡って繰り返してきた。
シビラは招きに答えるよう小走りで友人達の元に向かった。距離を詰めている最中、悪寒が背筋をぞわりと下から上へ擽る。碌に前触れも寄越さず突如現れた悪寒にその場で足を止め、立ち竦んだシビラにルースがどうしたと怪訝に尋ねる。
「嫌な予感がする」
途端に二人は表情を強張らせた。シビラが予感と呼ぶ、いわゆる見聞色の覇気とは付き合いが長く、使い勝手の悪さは二人とも知るところであった。
本来であればシビラはその常軌を逸脱した覇気で、自らの命が絶える瞬間までの未来を見透し、世界に存在する生命の気配を全て探知し、他者が口には出さぬ微細な感情を自在に感知できた。しかしそう都合良く強大な力を扱えられるほど現実は思い通りに行かず、覇気は未来、気配、感情を第六感として伝えるのである。
その人智の及ばぬ覇気の手綱を握れず、生涯を終えることを予感したシビラに、周囲は余りに勿体ないと当の本人より歯痒がったのも今や懐かしい記憶であった。
「マジでコントロール出来ねェのかよ覇気…」
確実な虫の知らせに目を伏せたルースが片手で軽く頭を掻いた。
「私、海王類が襲ってくるに百ベリー賭ける」
茶化し気味に言うフェドラにシビラは首を横に振る。続けてルースが弾指をしてから敵襲かと問えば首を縦に振った。悪寒が鳴りを潜めたのである。すると中将の命令が船尾から潮風に乗って三人の耳へ吹到した。
「六時方向から赤髪海賊団が接近中!総員戦闘準備!」
三人は直ぐ船尾に体を向けた。フェドラは背負っていたマスケット銃を構え、ルースは鞘から剣を抜き、目を丸くしたシビラは湿り気を帯び始める掌で握り拳を作る。
「赤髪?!前半の海にいたんじゃねェのか!」
ルースの言葉は激しい心音に負けて耳に入ってこなかった。シャンクスとは六年前に顔を合わせて以来、一度たりも接触を持たず終いであった。今や対面してしまえば殺し合いに発展する立場にある為、再会する事を諦めざるを得なかった男が船を此方に進めている。
関わりが薄かったとはいえ、実父を殺す——血の繋がりより戦友との絆を優先できるか。鼓膜裏で心臓が動いているような感覚の中、そう思い及んで交戦の意思が弱まる。
だが戦闘を放棄すれば共に死線を越え、我らは元より血の繋がった同胞であると錯覚する程の、強固な絆で結ばれた同期達と上官に失意を抱かれるのでは無いかという恐怖がシビラの戦意を保たせた。
「シビラ!覇気で敵の位置を感知して!」
フェドラがシビラの背に向かって叫び終わると同時に、シビラは見聞色の覇気を発動させたが、おおよその敵の位置が映るはずの視界にはどうしてか断片的な映像が映った。
眼鏡をかけた老人が、顎に手を当てて此方の顔をまじまじ覗いている。それを皮切りに映像が矢継ぎ早に映り変わった。
甲板の上に出来た血溜まりの中にフェドラが横たわっている。大勢の一般市民が遠巻きに此方を見て感極まっている。小さな英雄、聖人とシビラを持て囃す新聞を手に憤慨するルースを周囲の海兵達が宥めている。一面が血で覆われている甲板に海賊達が転がっている。キャスケットを被り一眼レフを手にした新聞記者のポケットに、小さく折り畳んだ紙をすれ違いざまに入れる。血を吸って赤黒く変色した海兵服を身に纏うルースが腕の中で息絶えている。椅子に背を預け脱力した母親が胸から血を流している。シャンクスの振りかざした剣が眼前に迫ったかと思えば、辺りが暗くなる。
「おいシビラ!どうした!?赤髪がこっち来てんぞ!」
いつの間にか近付いていたルースに肩を強く揺さぶられ、視界に此方を覗き込む眉を顰めた彼の顔が映った。我に返ったシビラはほんの少しの間、呆然としていたがぽつりぽつりと告げる。
「…未来が…見えた」
「は?!今ァ?!どんな未来だよ?!」
「よく分からない…色んな場面がいっぱい浮かんで終わった」
恐らくこれからシビラの身に起こる事柄が順番になったものだ。そして最後の光景は死期なのだろうが、余計に混乱を招きかねないこの状況下で告げる気にはなれなかった。
そうこうしていれば、けたたましく砲弾が飛び交い、海に大きな水柱が立っては飛沫を乱散して消える。海面に叩きつけられる水飛沫の音と重く乾いた砲音が鳴り止めば、複数に重なった益荒男達の荒声と野蛮な駆け足が船尾から船首めがけて広がり初めた。
迎え撃つ海兵達が負けじと怒号を張り上げ、声が混ざる。鍔迫り合いが一つ一つ増え、銃声が至る所から鳴り響いた。戦闘というものは始まってしまうと煩くて敵わない。
轟音はあっという間に待ち構えたシビラ達を取り囲む様にして軍艦を侵食して行った。シビラの額から生汗がぽつぽつと浮き出る。一際強い存在が目と鼻の先に接近しているのを感じ取ったからである。
刃を交え銃の引き金を引く海兵や海賊達の合間からゆっくりと、右手に持つ剥き出しの剣を、右腰に挿した鞘へ器用にしまいながらシャンクスは現れた。その威厳に満ちた悠然たる歩みは人を威迫する。彼の様な強者はただの歩行で風格を示すのである。
生え際から浮き出た汗が顔の輪郭をなぞり甲板に零れ落ちる。臨戦態勢をとったままシビラ達の体は指先一つ動かないでいた。経験から来るものかはたまた勘であるのか、攻撃をするなと脳が警報を鳴らしている。
シャンクスはシビラの目の前で立ち止まり、真正面から見据え、シビラの顔に陰を作る軍帽へ手を伸ばした。そこでようやくフェドラの指が動いて引き金を引く事ができた。
「邪魔しないでくれ。そこの小さな海兵に用事があるだけなんだ」
眉間を撃ち抜かんと放たれた銃弾は、首を横へ傾けられ、髪を揺らすだけに終わった。大袈裟に口角と眉根を上げてそう言ったシャンクスに、フェドラはもう一度引き金を引こうとした。
直後、悪寒が背中を這いシビラの背後でフェドラが銃を手落とした。続け様に受け身もとらず背中から体を甲板に打ち付け、激しい音を立てる。
「おい?!大丈夫かッ?!!」
上擦った声でルースがフェドラを呼名するが、目を開いたまま仰向けに倒れたきり返答はなかった。返事が返ってこない事に慌て、剣を握ったままフェドラの胸に耳を当てる。鼓動を確認すると気絶しているだけであった。
ルースは太息を無意識に吐いて立ち上がり、視線をシャンクスに向け攻撃の構えを取る。シャンクスはその場に立っているだけで、攻撃を加えた形跡が一切見当たらず、加えて悪寒くれば自ずと答えは判る。
「覇王色の覇気」
仲間に気を割きたいがシャンクスから気も視線も逸らせなかった。シビラは再度迫る太く角張った皮の荒れる手を後退して避けた。
「おいおい、シャイだなァ。そんなに警戒しなくったっていいだろ?」
空振りした指頭がしょぼくれて下を向いたまま固まっている。ハハハと軽く笑うシャンクスに隙を見たルースが飛びかかるも、体ごと左横へ避けられ空振りに終わる。
狙いを外した初太刀を直ぐさま後太刀に変える。シャンクスの胴体を目掛け左方向へ振り抜いた刀の平地を光が滑り終わる。肉を絶った感触は柄巻越しに伝わってこなかった。再び外したという事実である。
シャンクスの姿を見失ったかと思えば、背中に一点の重い衝撃が加わる。蹴られたと悟った時には踏ん張りきれず、ルースは仰け反った姿勢を取ったまま前方へ大きく吹き飛んだ。
「おーおー血の気の多いガキだぜ全く」
肩にかけているマントを翻し、シビラの方へ向き直る。大股で接近するシャンクスを、シビラは逃げるでもなくただ見つめるだけであった。
今度こそシャンクスの指が軍帽の鍔を掴んで持ち上げた。押し潰されていた赤髪が、息苦しさから解放されたことを喜ぶように数本の毛が小さく跳ねる。
「…あー、悪い。人違いだった」
「……え…?」
気まずそうに持ち上げたばかりの帽子を被せられたシビラは、困惑を喉に押し止められなかった。
赤髪のシャンクスが写る、壁に背を貼り付けた手配書の横に並んでみろとよくシビラは揶揄われた。そう言われると決まって眉間に皺を寄せ、拒絶するのが様式であった。
「赤髪のシャンクスの様な髪色だ」海軍内で髪を見た者の誰しもが一度は声に出した。それをシビラがあしらい、フェドラとルースがまたかと絵壺に入る。薄っぺらな紙一枚から世に脅威を肌で感じさせる、赤髪のシャンクスの遺伝子を元に成した体で生きるシビラはそう揶揄われる度、小鼻から軽く溜息を吐いていた。
この煩わしい様式は年を重ねれば悪化した。顔に染みている幼さを月日に絞り取られるほどシャンクスとの血縁関係が顕著になると思ったシビラは、私事でも帽子を被るようになった。
髪と顔から主張する遺伝子の起源を悟られぬよう軍帽を深く被り始めて一年と数ヶ月が経ち、様式は順調に衰退の一途を辿っている。それ程まで似ていると言うのに、見間違い等と看做されるのは、到底理解が及ばなかった。
「強い海兵がいるって聞いたもんで見に来たんだが、全くの人違いだった!悪ィな!」
謝罪を受けたと同時に、脛で掬い上げるようにして蹴り飛ばされたシビラの体は弧を描いた。そのまま甲板に体を叩きつけ、一度だけ強く跳ねた。勢いを殺せず、鈍い音を立て体のあちこちに痛みを増やしながら転がる。
ようやく勢いが収まった所で、うつ伏せの体勢から腕と首に力を込め顔を持ち上げた。シャンクスの揺れる大きな黒い背が見え、声を張って呼び止める。
「待て!」
此方に一瞥もくれず、主人の帰還を待つ海賊船に足先を向け進む姿をどうこうできる効力は、やはり持ち合わせていない様である。二人の間に置かれる親子関係を、如実に表しているとシビラは思えた。
刃を交え、銃の引き金を引く海兵や海賊達がシャンクスの後ろ姿に重なり、やがて目視できなくなった。項垂れ、地に向かって息を吐き捨てる。
「ふざけんな」
頼むから骨肉争う道を進ませてくれるなと芯の脆い声が出る。気がつくと船は元の静寂さを取り戻していた。もう海賊達も、海賊船もありはしなかった。
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シビラはシャンクスと取るに足らない港の女の間に生まれた子供である。数日間だけ肌を温め合った仲であるにも関わらず、シャンクスはシビラの顔を海の彼方からはるばる見にやって来た。血生臭さとは無縁で石鹸か酒の匂いを纏っていたのを覚えている。
シャンクスが次の島へ出港してから一、二年経ったある日の事である。どこから嗅ぎつけたのか、海軍中将の肩書きを持つガープという男が家に押しかけて来て、そこで初めて自身の出生を知らされた。
「悪い事は言わん。母親と自分を守るために海兵になれ…いや、もう連れて行くか!いちいち島に寄って修行をつけるのも面倒じゃわいッ!お前さんは今から海兵じゃッ!」
脳と口が直結している男であったので、喋りたい内容だけを喋り、その日の内にシビラは海軍に入隊した。拒絶の言葉は鼓膜が分厚いのか脳へ届かなかった。
殺さず海兵にしてしまえば、赤髪が怒火からその異名となった髪を逆だてる事もなく、いざとなれば交渉に使う腹積りなのだろう。戦闘で死んでしまっても、海軍に入隊するというのはそういった結末を迎えるのが多数なので、海軍を責めるのはお門違いという訳である。
戦いとは無縁だったシビラは、環境の変化や慣れぬ訓練に放り込まれ、母から引き剥がされた寂しさから瞼を腫らし、人間より真っ先に冷水と仲良くなった。
幾度も逃亡が頭を過った事もあるが、母という存在が言動を縛り、意思を介在させる余地を与えられなかった。ガープから海賊の子供やその母親がどういった扱いを受けるのか聞き及んでいたからである。己だけが被害を被るなら、直ぐに逃げ出していた。
しかしシビラには覇気の才能があった。訓練でいきなり開花した覇気は簡単に周囲を凌駕し、初陣にてただ一人だけ人を殺めずに済んだ。他者の追随を許さぬ圧倒的な覇気は同期達が初めての殺人に嘔吐する中、側に転がっていた死体の強烈な匂いに甘さが含まれているのが理解できる程の、精神的余裕をもたらした。
それまで剣の扱いも、射撃の精度も悪かったシビラにとって、過酷な環境で生き抜くために縋り付くしかないものであった。時代と環境によって目覚め、磨かれた才能はあれよあれよと前線へ押し出した。環境が蜷局を巻いて締めつけるのでそれから逃げる事も諦念した。才能はシビラを生かし苦悩を押し付けている。
ただ、人を殺した後、食事がまともに喉を通る様な人間性を有していなかった。恵まれた才能に反比例して精神面は幼い子供そのものであった。そしてそれは潤滑油でもあった。才能を鼻にかけ不遜な態度を取って煙たがられるでもなく、その強さ故に遠巻きにされるでもなく、寧ろ周囲が放っておくのを良しとしなかった。
齢が十そこらの骨細い少女が、訓練で体中を血斑だらけにしながら歯を食いしばり、実戦で海賊を生捕にする姿に周囲は感動を見出した。同時に、大半の人間はシビラに清廉さを求めなかった。才能も精神も伴った無欠な存在であるより、稀に弱音を吐露し年相応の反応を見せる事を望んだ。人間味を感じられる方が安心するのである。
「シビラは覇気以外がダメだ」とシビラを揶揄う体で己を慰める者もいた。素直に「シビラは別格だ」と認めシビラという枠を設ける者もいた。反対に「早く人を殺せる精神を持て」と同じ人間であると実感させるのを忌避し、特別である事を望む者もいた。幸いシビラの見聞色の覇気は、関わる人間の性格の良し悪しを見分けた。
髪の色を揶揄われた際に「赤髪と言えばシビラだって認識されるくらいになって、逆に赤髪の野郎に髪の毛染めさせちまえ!」と慰めてくれる友人に恵まれた。散々揶揄われた髪の色を、親子の関係を惜しみ残していたが、断ち切るべきなのだろう。今は血より絆を重んじなければならない。友も自分も生き延び、父と殺し合いもしない道を選び取る為の力が、シビラには備わっている。